TAROHEI NAKGAWA
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祖父の名は「中川太郎平」 私と同じ

祖父は大阪の南同心町に本店を置き名古屋の鶴舞に
事業を営む傍ら、美術品を収集していた
祖父は週末になると私を連れ彦根の家に向かうのが常で
休暇の折も仕事の姿と変わらず背筋は伸び
事を成す時の張りつめた様相は、幼少の私には怖く写り
その緊張感と気迫を面白くも興味深く観察していた
今、祖父の実直な姿勢に好感を持つ

そのような祖父を敬愛し又、その、その、先祖は
幕末の動乱の折、井伊直弼と共に国策に携わった僧と聴く

先祖、祖父から「つながり」私が有り
そしてアートを媒介とし敬重なる人々と「つながる」

棚谷喬氏と「つながる」
当時、創世記の広告業界には頼もしい人々がいた
博報堂から始まり、電通にて出会ったその氏の協力も得て
役員に7名の勇士に名を連ねていただき広告制作会社を設立
精鋭を集わせ業界に一石を投じる

瀬木慎一先生と「つながる」
藝術の数多くの高尚を先生から学んだ
「日本画では富岡鉄斎と浦上玉堂しかいない」
それは、私は十分理解出来、惑わされない芸術的尺度と概念の指標とした
戻るが、共に高度成長期を駆け抜けた棚谷氏が若くして世を去り
同時に私も広告業界から去ることにし、短絡的な想いで画家になる
当時、三越デパート美術部は有数の顧客を有していた
その恵まれた作家活動は瀬木先生の力添えによる
描いた作品は三百点あまり全て売りつくし堪能しひとまず筆を置く
後に立場は逆転し、画廊を営み美術催事なども企画する

才能あるアーティスト達と「つながる」
現在の藝術は身近なものになっている
社会にアートの更新と普及に役立ちたいとの想いと同時に
アーティストの方々に安定した雇用を生む為
社会人の方に向けアートを良質な内容と環境を整え
アートスクール銀座と名うち開校する
それは日本での「アートスクール」の先駆けとなる

ラファエロ•フッドと「つながる」
彼のニューヨークの画廊ではモノクロマックな作品、版画、書籍など
紙を支持体にした作品を、氏は取り扱っていたこともあり
私の和紙に墨、桐板に墨で表現した、書の作品に大変興味を示し
ニューヨークのダンボアートフェスティバルに私の展覧会の場を与えてくれた
会期2ヶ月の予定は盛況で1ヶ月延長され充実した展覧会となる
それは幾人かのアート関係者と「つながる」機会となった

ディオニシス氏と「つながる」
ギリシャ人の芸術博士 ディオニシス•フリストフィロヤ二ス氏を
中川画廊に招き企画展を開催する

ルーマニア芸術界の総督ヨアンと「つながる」
東欧の文化の街、クルージュ•ナポカの芸術大学と国立美術館より
私への招待状が届きコラボレーションが実現する

美術大学学長のソロ•ラドゥ氏と総督ヨアン氏に「つながる」
ヨアン氏とラドゥ氏を東京へ招き中川画廊にて企画展を開催
この時、瀬木慎一先生が病を押し駆けつけてくださり先生との最後となる

美術大学学長のソロ•ラドゥ氏と「つながる」
私の写真作品の被写体として、こころよくレンズの前に立っていただけ
それは私の代表作の一つとなる

マルタ共和国の教授博士ラファエロ•ベラ氏と「つながる」
セント•ジエーム美術館より招待を受け、書の展覧会を催す

マルタ国立美術館のサンド•ロデボノ氏と「つながる」
マルタ共和国の国立美術館に志を共にする作家がギリシャ、マルタ、イギリス、
ニューヨークから友達が集い作品展を催す

未来へと続く、、